疑似科学についての考察 その3
カール・ポパーは科学と疑似科学の境界は「反証可能性」にあると考えました。
つまり、科学というのはどこまでいっても仮説に過ぎない。どの説も新たな実験結果や観察結果によって過去のものとなる可能性を秘めています。
だからこそ、長い間反証されなかった説は有力なのです。
ところが、理屈はあっても反証不可能なものは覆しようがありません。
フロイトが無意識があると言っても、それが本当にあるのかないのか解りませんし、無いことの証拠も提示できません。
マルクスの唯物史観にしても、生産力によって生産関係が規定され、その生産関係に政治体制を含めた様々な文化が規定されると言われても、それを実験により確かめることはできません。
このような「反証可能性」のないものは、どれほど精緻な理屈で飾り立てても占星術同様の疑似科学に過ぎない、というのがポパーの主張でした。
現在、ポパーの科学概念がそのまま認められているわけではありませんが、
疑似科学とは何かを定義する際には
今でもポパーが提唱した「反証可能性」は重要な意味を持っています。
アメリカの心理学者テレンス・ハインズは、疑似科学の性質として
1 反証可能性がない
2 検証への消極態度
3 立証責任の転嫁
の3点を挙げています(ウィキペディアより)。
2,3からして、昨今の科学と疑似科学の区別は、理論構築の手法や理論内容だけでなく、その理論を主張する人たちの態度や、その理論の使われ方にも依存するようです。
そして、私=森口としては、
実験的な反証可能性がないのも関わらず自らを『科学的』と詐称して恥じず、
全ての社会主義国家運営が失敗している事実を観察しながら『ソ連の崩壊はソ連帝国主義の敗北であり共産主義の敗北ではない』と強弁する人たちの姿を見るにつけ、
と評価せざるを得ないわけです。
ちなみにポパーは、批判が自由にできる「開かれた社会」に最高の価値を置き、全体主義国家ソ連に断固反対することを表明していましたが、
マルキストが牛耳る当時の日本では「リベラル」ではなく「反共=右翼」と理解されていたそうです。